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内山節著 里という思想

2010.03.09 by Lazy Bee

「里」という思想 (新潮選書)

なぜ、人は里山という言葉に惹かれるのか、と考えていたときに、この本のことを思い出した。

命の循環がゆっくりと行われる村の景色の中で暮らしていると「これでいいのだ」と諒解する。土地=自然と人が結びついたときだけ、この諒解が起きると内山氏。個々の個体が死を迎えながらも、村という団体は続いていく。何代も前の人のことは直接伝わらないけれど、かつての人の暮らしがあって今の暮らしがあると実感できること、結局、続いていくということが安心につながるのだろう。

「ともに生きる、ではなく、ともに死ぬ」ことが重要なのかもしれない。

かつて参加した内山先生の勉強会のタイトルはそのものズバリ「死についての思索 自然、共同体、記憶(歴史)に即して」だった。

ローカルの中でさえ死を失う現代。ついに死は科学にゆだねられてしまい、おまけに生の側にだけリアリティがあれば、なんでもアリの世界になってしまう。死の世界のリアリティがかつてはNO!と言わせた言葉を私たちは失いつつあると。

都市には(オフィス街には、というべきか)、いのちの連続性が見えない。持続可能性の手ごたえがない。

それは死がないから。すなわち、そこで繰り返される生がないから。

だから、都会の人は、巣箱の中で生と死を繰り返していくミツバチの巣を傍らに置くことで安心感を得ようとしているのだろうか。

ハチミツが採れることだけで、これほど都心での養蜂が都会の人だけに熱狂的ともいえる支持を得る不思議。
まさに狂騒曲。

無機質な中で人は生きていけない。

なのに無機質なものを終わることなく作り上げていく。
でも、ミツバチを道連れにすることは、もう、やめましょう。
本当の里に今こそ、回帰するとき。

都会人には、とても難しいことになってしまった里への、自然への回帰をあきらめることなく取り組んでいきたい。

ミツバチに導かれて。
環境のためだけでなく、私自身のために。

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